さくぶん道場 第195回 大谷雅憲
君逝きて浮世に花はなかりけり 〜漱石の秘められた恋
夏目漱石が子規に出した書簡を読んでいると、一通だけ、他とはトーンの異なる内容があることに気づく。それは、明治24年8月3日(月)付のものだ。
「不幸と申し候は余の儀にあらず、小生嫂の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻と申す病気にかかり、とかく打ち勝れず漸次重症に陥り、子は闇より闇へ、母は浮世の夢二十五年を見残して冥土へまかり申し候。天寿は天命死生は常業とは申しながらまことにまことに悔しき事致候。
┄┄(略)┄┄ 一片の精魂もし宇宙に存するものならば、二世と契りし夫の傍らか平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴たらんかと夢中に幻影を描き、ここかかしこかと浮世の覊絆につながるる死霊を憐れみ、うたた不便の涙にむせび候。」
義姉の死に出会った義弟の心情としてはあまりにも激しすぎる。評論家・江藤淳は、この手紙を糸口にして漱石と嫂(あによめ)との間の愛情関係を追究している。

おそらくそうなのだろう。実際に男女の関係が存在したのかどうかは別にして、嫂の存在は、漱石の一生を左右するほど大きなものであった。しかも、それは「既婚者に対する恋」「近親者に対する恋」という二重の禁忌を犯している。人一倍道義心の強かった漱石にとっては、どんなことがあっても秘めておかなければならない「秘密」であった。
実生活の中でも、東京→松山→熊本→ロンドンと、東京から離れるように生活の拠点を変えていく。作品でも、『夢十夜』の「第一夜」に出てくる百合の女(百合は夏の花であり、嫂は夏に亡くなった)、『行人』の二郎と嫂の和歌山での不可解な一夜など、さまざまに変形されながら「秘密」を秘密のままに浄化しようと試みているような気がしてならない。
実は、漱石が英語で書いた詩の中に、この「謎の女」についてストレートに触れているものがある。これは、表現を前提にしない英語の詩という表現形式だからこそ書けたことだろう。そして、今回紹介した子規への書簡も、そうした「表現を前提としないもの」だからこそ真情が溢れ出たのであり、後世の僕たちが垣間見ることができた。
子規は漱石の真情を理解できず、漱石をからかった手紙を書いている。そして、漱石はそのことに激怒する返事を書いている。それでも、自分の真情を吐露できる唯一の存在として子規という友を持てたことは漱石にとって大きな慰めであったと思う。
夏目漱石は五男三女の末子。父54歳、母41歳のときに生まれた。いわゆる「恥かき子」として、里子に、次いで塩原家に養子に出された。9歳のときに養父母が離婚したため実家に戻ったが、「歓迎されない子」であったらしい。実母は13歳のときに死亡。このあたりの事情が漱石の人間形成にどのような影を落としたかについては、別の機会に詳しく検討するとして、漱石は夏目家に戻ったあとも、自分が「一個の邪魔物」(『道草』)であるという意識から自由になれなかった。
「実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。寧ろ物品であった。ただ実父が我楽多として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。」(『道草』)
塩原姓より夏目姓に復籍するのは21歳のとき。漱石の兄は、嫂と結婚した後、すぐに愛人を作り、なかなか家には帰ってこない。漱石は病弱な嫂の文字通り「杖」となって彼女を支えたそうだ。おそらく、肉親にとっても「取り替え可能な物」に過ぎなかった自分自身を、かけがえのない人間として扱ってくれた最初の異性が「嫂」であり、最初の友人が「子規」だったのではないか。だから、彼女の死を俳句に結晶させたかった。そしてそれを子規に見せたかった。僕はそんなふうに解釈している。
今日より誰に見立てん秋の月
吾恋は闇夜に似たる月夜かな
漱石が書いた英語詩の一つを、江藤淳訳で紹介する。
私が彼女を見つめると彼女も私を見つめた
私たちはおたがいに見つめつつひととき立ちつくしていた
生と死のあいだで
それ以来私たちは二度と逢わなかった
だが私は しばしば
花野の道に立つ
生が夢と出逢う道に。
ああ生よ お前は
融けて夢となるがいい
それなのに夢が
いつも生に追いかけられている!