KLクナンガン 母のぼやき 第5回
地球の暮らし方B面「2024年秋に教育を思う」
日本被団協がノーベル平和賞を受賞したニュースを聞いて思い出した事があります。娘がインターナショナルスクールのGrade10の頃、原爆投下についてのディベートが授業であり、娘はジャッジの担当になりました。これは彼女にとって幸いだったそうで、「この話題では肯定派が勝つに決まっていて、ディベートでは感情を持ち出した時点で負け、かわいそうとか人道的じゃないとかそんな論理的じゃないことでは勝ち目はない。それにどのような惨状がどんなに長く続くかなんて日本人以外は知らないのが世界の普通だと思う」と言っていました。娘は映画『オッペンハイマー』をKLの映画館で見たそうですが「あの映画には『はだしのゲン』のような場面は一切ないよ。あれはオッペンハイマーの伝記」とも言っていました。
また、Grade12(高三)の頃の英語の授業で、本土中国出身のある女子生徒が「台湾は中国の領土だ」と毅然と言い放ち一歩も譲らない、その場面で韓国人の生徒が「TAIWANて何?どこにあるの?」と聞いてきたので、娘は台湾の場所と状況を説明したのだそうです。するとその彼女は「あー、トクト(竹島)みたいな感じのやつね」と日本人である娘に返事をしたそうです。正真正銘ニッポンのおばさんである私としては釈然としない感情の部分もありますが、そこはこの場では省いて。。。
最近日本の教育はもうダメだなんて声を耳にしますが、そうでもないんじゃないかと私は感じています。娘が日本の中高一貫での中二の頃、学校で初めて上級生によるホンモノのディベートを見たらしいのです(彼らは日本語はもちろん英語ディベート部世界優勝や模擬国連に出るような学生。娘はマクドナルド寄り道部の学生でした。とほほ)。肯定派と否定派の二つのチームが交互に定義・主張→反駁→反駁→結論という流れで激論を戦わせるわけですが、どちらのチームも反駁の時に敵チームが自分たちの主張のどんなところを突いてくるか、敵チームの立場になって考えないと守備ができません。そうすることによって自ずと感情は排除されるし、そこには綿密な下調べが必要不可欠で知識のストックがなければ成立しない。相手の視点を知ってみて初めて自分の主張が説得力を増す、そんな経験を学ぶ授業だったのかなと思います。上級生の豊富な知識とそこに至るまでの綿密な下準備を垣間見られたことに、ひとりの観客である中学生の娘も感動したのでしょう。
しかしながら、これは全ての人類が自分以外の視点を知ろうとする気持ちがあることが大前提なわけで残念ながら現実世界は正反対。良くも悪くも情報があふれかえる今だからこそ、物事の基礎となるある程度の知識を詰め込んでから自分を俯瞰して、そして大局をみるという日本的な教育もイイんじゃないのかな。悪い意味ではなく、本当に心から良い意味で相手の裏をかく、そういうしたたかな一面が世界で生きていく日本人には必要なのかもしれない。新渡戸稲造先生、武士道に反していたらごめんなさい。
そういえば、私の父は「〇〇新聞の論調が大嫌いだから俺は隅々まで毎日読むのだ」と言って〇〇新聞と他の新聞の二誌をとっていた。そんな彼が涙目になりながら鼻毛を抜いているのを見て爆笑した孫である私の娘に彼は、、、、、その鼻毛をかわいいかわいい孫めがけて吹き飛ばしてきたのです! おお、頑固じいじのほうが一枚上手だ。娘よ、したたかに生きよ! 世の中はタフでなければ生きてはゆけない、だが優しくなければ生きる資格はないのだ。
KAYAの母:2020年より5年間暮らしたマレーシアを離れて現在オランダ・アムステルダム生活始動中。マレーシア滞在中のぼやきは「KLスカラン 母のぼやき」で全15回分読めます。場所が変わっても、ときに鋭く、ときにゆる〜く、話題に切り込みつつ、相変わらず、ぼやいていきます。