さくぶん道場 第189回 大谷雅憲
海外生活から学ぶこと
帰国生入試では「海外生活から何を学んだか」、つまり、異文化体験が問われることがメインとなる。「志望理由書」「面接」「小論文のボディ部分になる経験」で問われるほどに重要なのだが、興味を示さない生徒に出会うことがあるので、今一度、異文化体験の重要性について触れておこうと思う。
違っているから面白い
異文化体験というのは、「これまで当たり前だと思っていたことが、別の場所では当たり前でないことに気づくこと」だと定義しておこう。本当は「私」と「あなた」の出会いを含む、あらゆる出会いは異文化体験なのだけれど、同じ日本人同士ならわかり合えるだろうという暗黙の前提があるから、それが異文化体験であるということを普段は意識しない。それが、マレーシアとの比較だと、違いが鮮明に見えてくる。
「日本人」というと、僕たちには大体共通した特徴が浮かんでくるだろう。日本だって単一民族国家ではないのだが、人間というのは自分が見たいように物事を見るクセがあるから、たとえば、スポーツ界で活躍する八村塁や大坂なおみみたいに両親ともが日本人でない選手は、「日本人だけど日本人じゃない」というわけのわからないカテゴリーに分類されてしまう。でも、マレーシアのような多民族国家で生活すると、それぞれの民族が自分たちの言語や宗教、文化とどのように向き合っているのかが、はっきりと見えてくる。
言語にしてもそうだ。僕のマレーシアの友人は客家語を母語とする華人だ。彼はオーストラリアの大学を卒業しているから、英語が中心の言語になっているが、マレー語・マンダリン・広東語・福建語、そしてもちろん客家語を使いこなす。現地の会話を聞いていると気づくのは、話しているメンバーに応じて言語が使い分けられることだ。バイリンガルどころかマルチリンガルな状況がそこここで現れる。そして、国際校に通っている生徒であれば、学校内でも、英語を母語としない人間が英語を通して理解しあったり、お互いの文化を教えあったりするというのは日常的な風景であるはずだ。ことばに興味がある人、あるいは、「国際共通語としての英語」の役割を考える人にはたまらなく面白い環境がここにはある。
「寛容」がキーワード
グローバル化する社会とは、ヒト・モノ・情報が活発に動く社会のことだ。アジアでもASEANと日中韓の結びつきが強まり、さらにインド、最近では欧米もこの地域との関係を強化している。異なる価値が共生していくための知恵が僕たち日本人にも必要になってくるのは間違いない。
マハティール前首相が政界を引退するときに行った演説を聞いていて、「これだ」と思った言葉があった。演説の内容を理解できるだけの英語力は僕にはないが、何度も繰り返された「tolerance」。国語辞書には「寛大で、よく人をゆるし受け入れること。寛容。」とあるが、英語辞書では、「忍耐、我慢強さ、許容誤差、(環境的要因の変化・毒物などへの)耐性。」という意味になる。
日本語で「寛容」というと、太っ腹で物わかりのいい人物を思い浮かべてしまうが、そうではない。好きではない、認めたくない考え方や存在に対して、我慢しながらも、相手の考え方や存在を否定しない。これなら、僕のような器の小さな人間でも実践不可能ではない。イスラム教で厳しく禁止されている豚肉を異教徒が食べることへの寛容、異教徒の祝祭日も国民の祝日にする寛容、あるいは逆に、ブミプトラで優遇されているマレー人に対する他民族の寛容。もちろん、きれい事ばかりで済まないことは僕だって知っているが、異なる価値観を持つものが共生するために僕たち日本人がこの国から学べることは少なくないはずだ。