さくぶん道場 第188回 大谷雅憲

外国で青少年期を過ごすこと

 10代のときに出会った人やことば・場所・興味を持ったこと・夢中になったことなどは、その人の世界の見方や感じ方に決定的な影響を与える—10代の青少年と40年近く接してきて、このことを強く感じた。

 マレーシアに数年しかいなかった生徒や、マレーシアにいたときには早く日本に帰りたがっていた生徒が、大学生になって、あるいは社会人になって遊びにきてくれる。あるいは、人生の節目節目で思い出したように連絡をくれる。そんなとき、彼らは「自分」の土台の大切な一部分を作り上げた「場所」を確認しているのだろう。

 こうした経験は、大人になってからマレーシアに来た僕とは決定的に異なる。30年近くマレーシアにいたという年数では測ることのできない何かを彼らは得ているのだろう。

 そのこと考えるために、「外国語で人格を形成すること」と「青少年期に外国で生活をすること」という2つの切り口に絞って考えてみたいと思う。道案内は、1982年生まれのロシア文学研究者・奈倉有里のエッセイ、『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』と(イースト・プレス)『文化の脱走兵』(講談社)。

 筆者は、高校一年の秋にロシア語を学び始める。理由は、「ロシア語なら文字も違うのだから家族も友人も読みかたさえわからないと思うと、秘密の暗号みたいでわくわくした。」というもの。ソ連はすでになく、ロシア語の国際的な価値が下落したときに、こんな理由で言語を学ぼうとしたこと自体が素敵だ。NHKのロシア語講座をはじめ、節操なくロシア語にのめり込んでいると、ある日、特別な体験をする。

「単語を書き連ねすぎて疲れた手を止めたとき、突然思いもよらない恍惚とした感覚に襲われてぼうっとなったことがある。(中略)――「私」という存在が感じられないくらいに薄れて、自分自身という殻から解放されて楽になるような気がして、その不可思議な多幸感に身を委ねるとますます「私」は真っ白になっていき、その空白にはやく新しい言葉を流し入れたくて心がおどる。(中略)――「私」という存在がもう一度生まれていくみたいだ。いま思えば、あれは語学学習のある段階に訪れる脳の変化からきているのかもしれない。――言語というものが思考の根本にあるからこそ得られる、言語学習者の特殊な幸福状態というものがあるのだ。たぶん。」

 これが、僕には経験できなかった「外国語で人格を形成すること」を経験したときの描写だ。大人たちの知らないところで、こういう経験をした子どもたちがいる。たとえ本人はそのことを自覚していなかったとしても。

 筆者は二十歳になる冬、ペテルブルグ行きを決める。2002年からペテルブルグの語学学校でロシア語を学び、モスクワ大学予備科を経て、ロシア国立ゴーリキー文学大学に入学。日本人で最初の卒業生となる。ここで筆者は、旧ソ連のさまざまな地方からやってきた学生や、ロシアの文学作品や、「学ぶ」こととは何かを教えてくれた恩師に出会う。

「それは私にとって少しずつ生まれ変わることだった。いつのまにか、かつての自分といまの自分は全くの別人というくらい、私の内面は変っていた。私を変えた人はこれからもずっと、私を構成する最も重要な要素であり続けるだろう。」

 もちろん、楽しい経験だけではない。筆者が愛したロシア語・ロシア文学の世界ではテロや紛争が頻発する。

「私は無力だった。(中略)目の前で起きていく犯罪や民族間の争いに対して、(中略)けれども私は無力でなかった唯一の時間がある。彼らとともに歌をうたい詩を読み、小説の引用や文体模倣をして、笑ったり泣いたりしていたその瞬間――それは文学を学ぶことなしには得られなかった心の交流であり、魂の出会いだった。教科書に描かれるような大きな話題に対していかに無力でも、それぞれの瞬間に私たちをつなぐちいさな言葉はいつも文学の中に溢れていた。」

筆者が青年期に過ごしたロシアで作り上げた「魂の土台」は、国という行政単位で国際問題を考えるのとは異なる世界との関わりかたを筆者に促す。これが、「青少年期に外国で生活をすること」の大きな宝物のような気がする。