さくぶん道場 第186回 大谷雅憲

「少女ソフィアの夏」 トーベ・ヤンソン

ムーミンの原作者、トーベ・ヤンソンに『少女ソフィアの夏』という短編集がある。ムーミン谷は僕にとって理想的な場所だ。理想的というのは、登場人物が理想的なキャラクターだというわけじゃない。頑固だったり、意地悪だったり、自分勝手だったり、臆病だったり、ニョロニョロだったり、およそ調和とはほど遠い者たちが、くっついたり離れたりしている。

このワイワイガヤガヤの多声的カーニバル的状態を文学理論ではポリフォニーと呼んでいる。ムーミン谷の場合は、ワイワイガヤガヤしながらも、それぞれが居るべきところに居る。共同体の中で何かの役割を果たしているからそこに居るのではない。「ただそこにいること」、それがムーミン谷の住人の役割だってことが素晴らしい。

話を『少女ソフィアの夏』に戻そう。少女ソフィアはお祖母さんと一緒に、フィンランドの離島で夏を暮らす。これは、作者の母親と姪をモデルにした小説らしい。トーベ・ヤンソンの書くお祖母さんと少女だから、当然ながら一筋縄ではいかない。たとえばこんな具合。

 

「ねえ、いい子だろ、ソフィア。おばあさんには、この年になって悪魔の存在を信じるなんてこと、どうがんばっても不可能というものだよ。おまえは、信じたければ信じるがいい。だけどね、寛容の精神も学ぶべきですよ」

「何よ、それ。どういう意味?」

子どもが、ムッと、ふくれっつらをした。

「ほかの人の意見も尊重するってこと」

「だからぁ、ソンチョウって、なによ!」

と、ソフィアが、地団太ふみながらどなった。

「ほかの人に、信じたいように信じさせておくこと!」

祖母もどなった。

「わたしもおまえに、悪魔のやつがいるって信じさせておいてあげるから、おまえも、わたしが信じたくないことは、信じないままにしといておくれ」

「……おばあちゃん、いま、わるい言葉を使ったわよ」

「使うものかい」

「使ったってば“悪魔のやつ”って言ったもの」

 ふたりは、しばらくのあいだ、おたがいの顔を見ようともしなかった。「牧場にて」『少女ソフィアの夏』トーベ・ヤンソン 講談社)

 

「寛容性」について何度か言及してきた。ここでの寛容性は英語のtolerance。「(毒などに対する)耐性」という意味もある。もともと異教徒間の対立の中で生み出された言葉だ。でも、これは異文化間であっても個人の間であっても通用する。絶対的な正しさを信じている者同士が、完全なる理解を求め合った場合、強者が弱者を貪り尽くすまで、理解のゲームは終わらない。「理解の強要は関係の死」に至る。

ソフィアの祖母は、ソフィアの言うとおりにはならない。そのかわりソフィアを自分の言うとおりにしようともしない。二人の間には沈黙が流れる。これはコミュニケーションの断絶だろうか? 断じてそうではない。お祖母さんはソフィアを貪り尽くそうとはしなかった。

 

牧場に三頭の牛がいる。沈黙を破ったお祖母さんがしたことは。

 

「わたしはね、おまえも知らない歌をうたえるんだよ」

 こう言った、ちょっと間をおいてから、うたいだした。おばあさんはオンチなので、ひどく調子っぱずれの歌だった。

 

 モウモウさんの フン ララフン

 こんなところに フン ララフン

 落としておくな フン ララフン

 

  モウモウさんの ウン ラランコ

  わたしも ここへ ウン ラランコ

  落としておくよ ウン ラランコ

 

「なによ、それ!?」とソフィアが唖然として聞くと、お祖母さんはもういちど、じつにバッチイ歌をうたう。「パパは、ンコなんて、言ったことないわよ」と、ソフィアは食い下がるのだけど、お祖母さんはどこ吹く風だ。

 

「あんな歌、どこおぼえたのよ?」

「言わない」

と、おばあさんが言った。

 

なんて、生き生きとした関係だろう。お祖母さんはお祖母さんのままで、ソフィアはソフィアのままで、世界の中で二人が立っている。深いところで繋がりながら。

 

最後はどうなっているかって? そりゃ、ソフィアもバッチイ歌をうたうでしょう。しかも、おばあさんとそっくりな、ひどく調子っぱずれな声でね。