あじなんだより Ajinan Report vol.23
ACT教育ラボの所在地は広島県西部にある廿日市市阿品(「はつかいちし・あじな」と読みます)。「あじな」の住民になった自らを「あじなん」と名づけ、暮らしの中で気づいたこと・感じたことを報告していきます。今回は船名につく「丸」について調べはじめたものの、話はふらふらとあらぬ方向へ漂っていく…。北原ミレイの「石狩挽歌」を知ってる人、どれぐらいいるかな。
先日、宮島水族館からの帰り(時間ができるとトドやスナメリやペンギンを見にいく年間パスホルダーなのです。えっへん)にJRのフェリー桟橋で出航を待っていたところ、着岸している船体に書かれた「みやじま丸」という名前が目に入りました。JRには他に「みせん丸」「ななうら丸」というフェリーがあり、それぞれ宮島唯一の山と島内にある七つの小さな入江にちなんだ名前になっています。
なぜ船名には「丸」がつくのか? 昔の「私(I)=麿(まろ)」がペットや刀に転じて使われてやがて船にも説や城の重要部分を「本丸」「二の丸」と言った流れから説など起源については諸説ありましたが、はっきりしているのは明治政府が1900年に船名に「丸」をつけるようにと訓令を出し、それが2000年まで続いていたという事実。そりゃ「丸」だらけにもなるわ。あれ? でもハワイへ第一陣の移民を運んだのは「シティ・オブ・トウキョウ号」ではなかったかいな? と一瞬ひっかりましたが、おそらく「日本で製造される」という限定がつくのでしょう(テキトーに流す)。
さて、船名で丸といえば思い出すのは「笠戸丸(かさと・かさどまる)」(となるのは、私と同世代かそれ以上の方でしょうね)。1975年に発表された「石狩挽歌」という曲の歌詞に、
♪海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の ヤン衆がさわぐ
中略
沖を通るは 笠戸丸〜♪
という部分がありまして、ずっと気になっていました。笠戸丸もかつて移民船としてハワイや南米に移民を運んだ船。しかし太平洋航路を行く船舶が石狩地方から見えるのか? そもそもなぜ笠戸? 笠戸島といえばお隣・山口県下松市に瀬戸内海に浮かぶ島のはず。
で、サーチエンジンに働いてもらったところ、笠戸丸は元はロシア軍の船で「カザン」という名前だったのを日本が日露戦争の戦利品として分捕って、響きが似ている「かさと」にしたと判明。笠戸島の名を使ったのは船の所属が広島の呉軍港だったからでしょうか(そこは不明)。
で、石狩地方から笠戸丸が見えた謎については、2つの有力説がありました。一つは、同名の笠戸丸という船が昭和11年に松前沖(松前は北海道最南端・渡島地方に位置)で沈没したという記録があり、こちらが石狩地方の小樽のあたりまで来ていたのではないかという推測。
もう1つは先述の笠戸丸が日露戦争直後は大陸から兵隊の引き揚げ用に使われていたので、その姿が見えたのかもしれない。ちなみにこの船は移民を運ぶ移民船になった後、台湾航路の定期船・日本海軍の病院船・イワシやカニの加工船の時期を経て、最後は運搬船として軍に徴用され、太平洋戦争末期にソ連(現ロシア)の空爆を受けて沈没しました。なんたる運命…。1900年進水、1945年沈没。波乱に富んだ船の一生を知りました。