さくぶん教室 第184回 大谷雅憲
統合を求めない多文化主義
前回は「認識論」について考えた。要約すると、私たちは「先に存在している現実を、後から認識して判断している」のではなく、時としてステレオタイプや偏見も含めた「認識の方がむしろ先にあって、それに合わせて現実を作り上げて生きている」ということだ。今回は、別の角度からこのテーマについて考えてみたい。
今月号の巻頭エッセイの最後に、「世界は『見ようとしなければ見えない』のかもしれません。」とまとめたのも、認識論を意識したものだった。別の言いかたをすると、「見ようとすることで世界は見えてくる」ということだ。さまざまな年齢層や背景をもつ生徒と、25歳から文章表現教育を通して関わってきて、僕が彼らに伝えたかったことはこのことに尽きるのではないかと気づいた。
マレーシアのインター校に通う子どもたちは、僕から見ると、信じられないぐらい豊かでスリリングな経験をしている。でも、本人にとってその経験は、「わけのわからないプレッシャー」だったり、「理不尽な壁」だったりする。そして、それを乗り越えたときには、「当たり前の日常」の中に取り込まれてしまっている。実にもったいない。そうならないために、常日頃から、「異文化体験ノート」を作って、異文化で感じた違和感を克服する前に、「違和感そのもの」を言語化するようにアドバイスしているのだけれど、本人にとっては「乗り越えたこと」が重要なので、「違和感そのもの」なんて振り返るどころか、早く忘れてしまいたいものなのだろう。
ところが、帰国生を対象とした入試問題は、小論文や志望理由書や面接を使って、その「違和感そのもの」を問うてくる。たとえば、早稲田大学の2021年度の小論文では、「多文化主義」について、従来の欧米型の多文化主義は「統合を求める」ものであって、それは、2001年の9.11同時多発テロによって多数派からも少数派からも政治的に否定された。しかし、筆者は、「統合されない多文化主義」の可能性はないのかと読者に問いかけ、マレーシアの例を出してくる。筆者が伝えようとする「統合されない多文化主義」のイメージは、こんな感じだ。
■統合を求めない多文化主義
・積極的に交わらないが、互いに全く関心がないわけではない。距離を保ちながらお互いに何かが響くような感覚。
・市場で取引はするけれども、国民的な一体感をもつことはない。「かれらは混じり合うが、結びつかない」
・分かれて暮らしながら共存するという構図
筆者はこのような共存関係を「よそよそしい共存」で「壊れやすい均衡」だと言う。一見、消極的で否定的な評価のように感じるが、そうではない。「このような状態の積極的な側面を理念型として描き出すことはできないだろうか」と、問題提起をしている。
生徒にマレーシアの印象を話してもらうと、「ゆるい」「ぬるい」「ごちゃまぜ感がある」という言葉が返ってくることが多い。これも、一見、消極的で否定的な評価のように感じるが、さらに話を聞いていくとそこに「居心地のよさ」を感じていることがわかる。僕はそれを日本語の「寛容性」ではなくて英語の語源としての「tolerance」(忍耐・毒への耐性)という言葉で言語化することが多いが、どのような言葉で説明するにせよ、このような言葉を手に入れることで、マレーシアの多文化共生のあり方が見えてくるようになる。
異文化体験とは、異なる価値感情がぶつかることで摩擦熱が生まれることだ。こすれて熱いし痛いが、そこにエネルギーが生じる。その熱さと痛さ(違和感)をマイナスと見るか、新たな価値観の転機(マイナスがプラスに転化する)と見るか。「世界は見ようとしなければ見えない」「見ようとすることで世界は見えてくる」というのは、こうした世界の認識のあり方のことだと思う。