さくぶん教室 第183回 大谷雅憲
52ヘルツのクジラ
早稲田大学の2018年度小論文のテーマは「日本人は存在するか」。 私たちは「先に存在している現実を、後から認識して判断している」のではなく、時としてステレオタイプや偏見も含めた「認識の方がむしろ先にあって、それに合わせて現実を作り上げて生きている」という、『認識論』についてのテーマだ。
これ、大学生になってしばらくしたときに、出会った人からまるで通過儀礼のように出題された記憶がある。例えば喫茶店で「大谷君、これは何だと思う?」と問われる。「コップやん。見てわからんの?」「いや、だから、この『存在』をなぜ『コップ』と認識するのか……」「そんなもん、物心ついたときから『コップ』って呼んできたからやないか。お前、だいじょうぶか!」、という噛み合わない会話を何度かした。今では問う側になってしまったが。
今回、この認識論を考えるにあたって出した例の中に「52ヘルツのクジラ」があった。このクジラのことを知ってから、僕の中でずっと温めてきたイメージだ。ウィキペディアではこんなふうに説明されている。
52 ヘルツの鯨は、正体不明の種の鯨の個体である。
その個体は非常に珍しい 52 ヘルツの周波数で鳴く。この鯨ともっとも似た回遊パターンをもつシロナガスクジラやナガスクジラと比べて、52 ヘルツは遥かに高い周波数である。この鯨はおそらくこの周波数で鳴く世界で唯一の個体であり、その鳴き声は 1980 年代からさまざまな場所で定期的に検出されてきた。「世界でもっとも孤独な鯨」とされる。
僕がイメージする「52ヘルツのクジラ」はこんなイメージ。
「ボクハ、ココ二イルヨ」
広い太平洋を泳ぎながら仲間に話しかけるクジラいる。40年以上話しかけ続けているのだけれど、一度も応答がない。それでも彼は話し続ける。
「ボクハ、ココ二イルヨ。キミハドコ?」
このイメージを元に小説を書いた作家がいることを知った。「52ヘルツのクジラたち」という作品で、今、日本の映画館で上映されている。あらすじはこんな感じだ。
自分の人生を家族に搾取されてきた女性・貴瑚と、母に虐待され「ムシ」と呼ばれていた少年。孤独ゆえ愛を欲し、裏切られてきた彼らが出会い、新たな魂の物語が生まれる――。
小説も映画も見ていないので、作品の評価はできないが、僕のイメージとはずいぶんと違っている。「クジラたち」と複数形になることで、「絶対的孤独」のイメージを「コミュニケーションの可能性」に転換したようだ。僕としては、「52ヘルツのクジラ」はあくまでも世界で唯一の存在であるので、「たち」と複数形にしてしまうことに抵抗を感じる。生徒なら「52ヘルツのクジラ」をどう受け止めるだろうと思い、「さくぶん教室」で問うてみた。現在中3(4月から高1)になるMさんが、初めてインター校に通った小3時代の思い出を書いてくれた。
マレーシアに住みはじめたとき、私はアルファベットすら書けなかった。私がクラスに新しく来たことで、興味をもったクラスメイト達に囲まれ色々な事を聞かれたのだが、全て英語で浴びせられたために何も返すことができなかった。そのため、最初の内は興味をもって気にかけてくれた子達も、「この人とは会話ができない」という認識をもつようになり私に話しかけることはなくなった。そこからの三ヶ月間は、ずっと孤独で誰にも自分の言語が通じないため、自然と話すことが少なくなった。そして52ヘルツのクジラに自身を重ねてみると、この孤独だった期間が40年続いていて、今も孤独でいると考えるととても気持ちが分かってしまう。
Mさんの言語の違いによる会話障害は努力で改善する事ができるものだったが、その3か月間に感じた孤独はどれだけ深いものだっただろうか。Mさんはそのときの自分について「もう自分は孤独でこの海外生活を終えるんだと絶望していたような気もする」とも書いている。こんなふうに、自分の中にある暗闇をのぞいてみた人にだけ、闇の奥から「52ヘルツのクジラ」の声が、かすかな気配として聞こえてくる、そんな気がする。