さくぶん道場 第181回 大谷雅憲
「英語と日本語のあいだ」
小論文の課題文を読むと見えてくるものがある。その大学が「いま」という時代をどう捉えているのか。その時代の諸問題に向き合うためにどのような学生を求めているのか。
小論文演習クラスでは、最初に早稲田大学の帰国生入試で使われる「小論文 B」を使って基礎力を養っていく。「感情移入と他者理解」「専門主義と教養」「社会力」「大衆社会とファシズム」「群れの暴走とファシズム」「統合を求めない多文化主義」「合理的無知」「子どもが忌避される時代」など。キーワードを並べただけでも早稲田大学の出題者がどのあたりに問題意識を持っているのかがわかるだろう。
英語と日本語のあいだ
10月後半になって、より専門性の高いテーマに取り組むようになった。東京外国語大学国際日本学部のテーマは「英語と日本語のあいだ」。二つの言語の「あいだ」にあるものを変換することの可能性と限界を考えるものだった。インター生にはぜひ取り組んでほしいテーマなので「さくぶん教室」でも取り上げた。
ここで重要なのは「あいだ」だ。一つの言語体系はコンピュータのOSのようなものだと僕はイメージしている。日本語と英語のバイリンガルであるということは、たとえるとMacと WindowsのOSを頭のなかに装備しているようなものじゃないかと。だから英語を使っているときと日本語を使っているときとでは、異なった人格になっているし、世界の見えかたも違っているのではないか。この仮説を毎年生徒にぶつけるのだけれど、反応がにぶい。おかしいな、と思っていたのだが、「さくぶん教室」の生徒が、「それぞれのOSは別々に作動しているから、そのあいだの違いを意識することはない」と発言するのを聞いて、「これだ!」と腑に落ちた。
インター校生は学校では英語OSで、家庭や日本人の友人とは日本語OSで生活していて、二つのOSは自動的に切り替わっているから意識することはない。「さくぶん教室」の生徒がそのことに気づいたのは、日本の中学に編入して、英訳や和訳の作業をしたから。そこで二つの言語世界を往復することで、「こんな言いかたはしない」「意味はわかるけどニュアンスが違う」といった違和感を持つ機会があったからだと思う。課題文の筆者が訳読の重要性を強調するのは、この「違和感」こそが、言語を学ぶ価値だと考えるからだ。
二つの言語世界を行って帰ってくる
『指輪物語』を書いたトールキンは、児童文学とは「行って帰ってくる物語」だと定義した。行って帰ることで主人公は変化する。言語を学ぶことだって二つの言語世界を行って帰ってくることで、違和感を持ったり、接点を見出したり、一つの世界では知ることができなかった新しいものの見かた・感じかた・考えかたを発見たりする。異文化体験もしかり。「あいだ」が重要だと書いたのはそういうことだ。
実はこれ、日本語のなかにだってある。たとえば、「あほ」は関西では親しみや共感を表す言葉で、「花曇りのようにぽうっと暖かい感じ」があり、「大阪落語の主役」であると『大阪ことば事典』(講談社学術文庫) では大絶賛されているが、関東の人がこれを言われるとショックを受けるらしい。「ばか」になると関東と関西の人の反応が逆になるところが面白い。
一つの言語のなかには数千年にわたって積み重ねられてきた「世界」との関わりが保存されている。二つの言語世界の「あいだ」を旅するメッセンジャーとして自分を位置づけてみると、世界の見えかたも変わってくるかもしれない。