さくぶん道場 第180回 大谷雅憲
「バトパハの金子光晴」
ふとしたきっかけで金子光晴の『マレー蘭印紀行』について生徒と話す機会があった。金子光晴は10代後半から20代の青年期の僕にとって、道標のような存在だった。大学2年生のときに東南アジアを2ヶ月ふらついたのも、30代になってマレーシアで働くことを決めたのも、金子光晴の「影」に動かされたからかもしれない。
金子光晴は、僕の青年期ですら「忘れられつつある詩人」であり、しかも、自分の柔らかい部分に触れる詩人であったため、それについて誰かと話をすることはほとんどなかった。それが、マレーシア人の日常生活をよく知っている(これも珍しい!)高校生と『マレー蘭印紀行』という具体的な作品についてじっくりと話すことができるなんて、こんな嬉しいことはない。しかも、テーマは「生そのものを捉える」。閉塞感と生の希薄感に喘いでいた青年期の僕にとって、金子光晴のことばは肺に直接息を吹きかけてもらうような生々しい言語体験だった。
マラッカから国道5号線を南下すること約2時間、ジョホール州で二番目に大きい町、バトパハに着く。バトパハ川に沿ったところに旧日本人倶楽部があった建物が現存している。この建物は元々、華僑会館であったもので、その三階の角部屋を日本人倶楽部が借りていた。金子光晴は、アジア・ヨーロッパを放浪するときに逗留し、ヨーロッパからの帰りにも立ち寄った。10年にもわたる漂泊の中で、金子が唯一心落ち着けた場所である。
それは、屍体の鼻孔や、口腔に填めるつめ綿にも似た、陰気くさい北欧あたりの黄っぽい霧とはまったくちがう。晴れ間をいそぐ、銀色がかったうるみがちな川霧である。ちぎれては、ちぎれては、すばらしい速さで、それは翔ぶ。
霧のうすれてゆく尻尾の方から、墨で画いた水駅の欄干がすこしずつみえてきた。荷船のへさきや、斜にかしいだ帆柱や、赤い三角旗や、カラッパ葺のサンパンの苫などが、表情だくさんに、入墨ぐらいの淡さであらわれたかとおもうと、小姑(こむすめ)の吐く息ぐらいの、かすかな霧でかき消されていってしまうのであった。南洋の部落のどこのはずれへいってもみうける支那人の珈琲店がこの河岸の軒廊のはずれにもあった。その店に坐って私は、毎朝、芭蕉二本と、ざらめ砂糖と牛酪をぬったロッテ一片、珈琲一杯の簡単な朝の食事をとることにきめていた。
旧日本人倶楽部の建物だけでなく、街全体が80年前と同じ街並みを残している。旧正月中だったので、店はほとんど閉まっていた。バトパハで暮らす人たちは郊外に移り、大きなショッピングモールも郊外に展開している。中心地だけが時代から取り残された形で残っている。風のよく通る気持ちのよい街だった。