あじなんだより Ajinan Report vol.14
ACT教育ラボの所在地は広島県西部にある廿日市市阿品(「はつかいちし・あじな」と読みます)。「あじな」の住民になった自らを「あじなん」と名づけ、暮らしの中で気づいたこと・感じたことを報告していきます。第14回は「人生初の骨折」。阿品の海岸でコケました。
九月初日の昼下がり、近所の海岸沿いに出たところ、潮が引いていたので堤防から降りてみました。海面に近づくにつれて周囲の建物が視界から消え、海と空が目の前に広がります。対岸の宮島の大鳥居の朱色も映えて、海を渡る風にわずかながら秋の気配を感じました。
ふと足元を見ると、そこここにつぶ貝が! 「今日のおかずに拾っていくか」…その食い意地が運の尽きでした。足を踏み出した瞬間、濡れた岩でバランスを崩し、見事にすってんころりん(古語?)。その際、岩についた右手が不自然な形に曲がったきり力が入りません。
近所の整形外科に駆け込むと案の定、複雑骨折との診断で、応急措置のギプスを巻かれることに。このとき初めて知ったのですが、最近のギプスは包帯状の布に基材が塗ってあって、患部に巻きつけると、ほんのり暖かくなり、数分で固まるのです。石膏に浸した包帯でぐるぐる固めるギプスしか知らなかったローテクノロジー世代としては、もうびっくり。
世代の話でいうと、もう一つ。ギプスの吊り具として、病院で三角巾(もしやこれも死語か?)を結んでくれたのですが、これが大きな白いガーゼ生地で妙に存在感がありました。お店のガラスに映った自分の姿に、昭和40年代に目にした太平洋戦争後の傷痍軍人(しょういぐんじん)が重なってしまい…。
傷痍軍人とは戦地で肢体不自由になった元日本軍兵士で、生活に困窮して駅前や縁日など人通りの多い場所に立ち、白い病衣姿で不自由になった身をさらすようにして募金を集めていたのです。いま思えば彼らも戦争の被害者に違いないのですが、その姿は子供心におどろおどろしく、トラウマにも似た恐怖感がいまだに蘇ります。
そんなわが姿におののく「片腕を吊った準高齢者」に対して、行き合った人たちは優しく接してくれました。精密検査のため広島市内の病院に出かけた帰りの電車では、トゥドゥン(ムスリム女性のかぶるスカーフ)姿の女の子4人組が目の前の座席に。楽しげな会話の合間に聞きかじったマレー語が聞こえてきます。「マレーシアの子たちだ〜♡」と耳をそばだてていると、そのうちの一人が私のギプスに気がついて立ち上がり、「どうぞ」と日本語で席を譲ってくれるではないですか。いやいや足は問題ないからと言ってはみたものの、マレーシア人の親切パワーに押し切られ、ありがたく座らせてもらいました。
そこで一発、「ありがとう」をマレー語で決めようとしたのですが、これが出てこない。「スラマッ、ん、ちがうな。なんだっけ。あ、テリマカシだ!」と思い出したときには、すでに彼女たち、原爆ドーム前の電停で降りていました。
日本に戻って一年余り、私の中のマレーシア要素が薄れていくのを実感して、ちょっと寂しい。ギプスが外れたら一度KLに行ってこようと思います。