KLスカラン by KAYA 第3回

複眼で見るマレーシアA面「TOKって何だ?」 
1つのトピックに母娘それぞれの感性で迫るコラボレーションコラム

*スカラン(sekarang) :マレー語で「今」の意

どうやって知るの?

知ることって何? 知識って何? いきなりこんなことを聞かれてもなんじゃこりゃという感じですよね。でもIBではこの知識という「概念」を掘り下げるために、わざわざ『Theory of Knowledge』、日本語にすると『知の理論』という教科を取らないといけないのです。

これが本当に厄介で、授業をしっかり受けているはずなのに何をやっているのか全く分からない...。

内容は多岐に渡っていて、地球は球体なのか論争、AI囲碁、何も塗っていないキャンバスのような凡人には理解し難いシンプルな芸術など、とにかく色々なものについて考えながら知るということを追求していくのがこの教科の目的らしいです(今の所全く目的は果たせていませんが)。

しかも毎授業後に自分の感じたこと・考えたことについて書く振り返り(リフレクション)を書かされるのですが、先生は、正解を見つけようとするな、そこから新たに生まれた疑問や可能性について一つの視点だけじゃなくてさまざまな視点から考えて書けと言うのです。なんだー答えを求めなくていいのか、楽勝じゃん!と思えるかもしれない。私も最初はそう思っていました。でも今まで答えがあってこその勉強をしてきたから、答えを見つけないということが意外に難しいのです!

私たちは普段教科書や参考書を読んでそれが絶対に合っている答えだと信じきって勉強しています。でもそれらがなかったら自ら質問を考えて追求していかなければなりません。さらに色々な視点から自ら考えた質問について探求していかないといけない、なぜなら客観的な意見やデータがないとそれはただの個人の感想になってしまうから。じゃあ個人の感想をたくさん集めれば客観的なデータになるのかというとそれは違うみたいなのですが...(客観的ってどういうことなんでしょうかね?)

つまり答えを出すということよりも質問をするということの方が断然難しい、けれども質問の質・仕方が良ければ良い答えはすぐに出てくるのです。批評家の小林秀雄は『人間の建設』という岡潔との対話本で「問題を出すことが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだ。」と述べていました。また哲学者のベルクソンも「哲学においても、その他の場合でも、問題を解決する以上に、問題を発見すること、したがって問題を提起することが重要だというのが真実である。なぜならば、思弁的問題は、提起されれば解決されるからである。」と言っていたらしいです。シベンテキ問題はイマイチ分からないけど、やはり学問という字からも、本当に学ぶ・知るということは「学んで、問う」ということなのかもしれないです。

今現在知識を得るということはインターネットやAIを使えば簡単に一瞬で出来ます。だけどその本当に知りたい良い知識を得るためには、まず問題を出すということが必要、そして検索の仕方や質問の仕方などでも得られる知識の質はかなり違いが出てくる。ChatGPT自身から質問をしてくることは絶対にありません。ChatGPTは私たち人間が与える質問に答えるだけなのです。なぜなら問題を見つけて質問するということは人間にしか出来ないことだから。AIが人間を超えていってる瞬間を生きている私たちにとって、この学ぶ・知るということを追求する授業は今は理解できなくても、人間としての自分たちの価値を与えてくれ、パラダイムシフトが起こる世界で生き残る時に役立ってくれるかも? 実際TOKの先生もChatGPTはうまく使ったほうが良いと勧めているし、でも先生のオススメ通り使ってみたら、使ってもいいけどコピペはダメだって呼び出しをくらいました。いつかこの授業で習ったことを活かせる世界が来てほしいような来てほしくないような。今はガチめんどくさい&ガチ訳わかんない教科でしかないのですが...。

ライター:KAYA(マレーシア名物ココナツミルクのジャムと同じ名前です) 2005年12月生まれ。マレーシア・クアラルンプールのアメリカ系インターナショナルスクールで国際バカロレアのディプロマプログラムを履修中。十代の視点から日々の気づきを発信していきます。