さくぶん教室 第172回

子どもと影 大谷雅憲

 私の中には100人の小人が住んでいる

こういうテーマを思いついて、作文を書いてもらったことがあった。自分の中には、いろんな自分が住んでいる。曲がったことがいやな自分もいれば、自分だけいい思いをしたい自分だっているし、臆病な自分、おどけた自分、調子乗りの自分、いじけた自分、前向きな自分、すぐに凹む自分、意地っ張りの自分……そうした小人たちが外に出てこようとしてざわざわしている。

でも、他人から評価されたり、けなされたりしながら、この自分を外に出しておけば安心だという自分ばっかりを外に出すようになり、気がつけば、多くの「自分」は心の底の底の部屋に閉じ込めたきり出してもらえない。せめて作文の中でぐらい、そうした小人たちを自由に遊ばせてやらないと、干からびてしまうぞ。そんなふうに思って作ったテーマだった。

子どもたちには人気があって、一人称まで変わって、「俺は」「おいらは」「あたいは」と結構ワルの小人たちが出てきたりするんだ。なかなか、いいアイデアだなと、自慢屋の自分が誇らしく自画自賛していたら、実はこれって、ユングがすでに書いてたのね。ああ、なんだ二番煎じだったのかと、いじけた自分が頭を抱えたりもする。

子どもと影

アーシュラ・K.ル=グウィンの『夜の言葉』の中にある、「子どもと影」では、ユングの言葉を使って、この小人のことを「影」と呼んでいる。影は、自分の中にいるさまざまな自分の中で、僕たちが自我として意識するものの中に入れたくないもの。僕の言葉でいうと、「心の底の底の部屋に閉じ込めたきり出してもらえない」小人たちのことだ。ユングの言葉ではこういう説明になる。

「誰でもみな影を背負っていて、それがその個人の意識的な生活のなかに形をとって現れることが少なければ少ないほど、より黒く、濃いものとなる。」 

これは僕にも受け入れやすい考えだ。親や教師や友人から受けのいい評価されるような自分ばかり出していると、外に出てくることのできない小人=影たちは鬱屈していき、心の中に棲む魔王と化していく。社会的に善人と見られる人間ほど、うちに邪悪なものをため込んでいくのかもしれない。

では、一体どうすればいいのか。

ル=グウィンは「憎むべきもの、邪悪なものが自分自身のなかにあることを認めなければならない」と書く。自分自身の内側にある深淵を覗き込むこと、時には勇気を出してそこを旅すること。ル=グウィンは「影は単なる悪ではない」という。

「より劣ったもの、原始的で、ぶかっこうで、動物的で、子どもっぽく、一方で大きな力をもち、生気にあふれ、自発的なものなのです。」(同上)

これって、ホビットやトロール、あるいは日本のさまざまなモノノケに似ている。僕なりに格好つけた言葉で翻訳すると自然性とか野性というものかな。自分の中にあるそうした小人たちと出会い、それとうまく折り合いをつけること。そうした内側への旅に行って、帰ってくること。ときには自分自身で、ときにはファンタジーの力を借りて。

小人たちの存在を無視し続ける人は、表層的な世界にしか生きることができないのかもしれない。自分は悪くない。自分の中には腹黒い悪魔や、得体のしれない小人なんて住んでいない。僕は悪くない。悪いのはみんなあいつらなんだ。

自分自身の影におびえる

最近、ネットニュースやSNSのコメントを読んでゾッとしている。ゾッとするのは彼らの思想に対してではなく、彼らの無思想に対してだ。自分の気に入らないものがあると、「ここから出ていってくれ」「日本から消えてくれ」とダタッ子のように叫ぶ。

彼らは何を守りたがっているのだろう。ル=グウィンの次の言葉に出会って、ああ、これだなと思ったものを見つけた。

「意識に受け入れられない影は外側に、他人に投影されます。わたしはなにも悪いところはない──あの人たちが悪いのだ。わたしが怪物だなんて、他の人のほうが怪物なんだわ。外国人はみな腹ぐろい。共産主義者はどいつもこいつも悪人だ。資本主義者はひとり残らず悪の手先だ。あの猫が悪いんだよ、ママ、だから僕けっとばしたんだ。」(同上)

彼らが怯えているのは自分自身の影。自分自身に向き合うことをしないと、どんどん影は膨れ上がり、影に対する恐怖も膨れ上がり、それに対する罵倒も膨れ上がっていく。気がついたら、あなたの世界の中に、あなた以外が住む空間はなくなってしまうことも知らずに。