さくぶん道場 第171回

感情移入と他者理解         大谷雅憲

早稲田大学の帰国生入試小論文問題(学部共通)で、「感情移入と他者理解は異なる」と主張する筆者の文章を読ませて、この主張について自分の体験をもとに述べる問題があった。

「感情移入」と「他者理解」を筆者の説明に従って整理すると次のようになる。整理してくれたのは、受験生のAさん。

「日本は昔から『思いやり』の精神という、日本人としての道と考えられているものが存在する。しかし、思いやりとは同情するということであり、同じ価値感情が人々の間に存在する場合にのみ効果的に働くものである。そこに同じ価値感情が存在しないにも関わらず、相手に自分の思いやりを押しつければ、それは同調圧力となり、相手の価値感情を抑える結果となる。他者理解とは相手に感情移入することではなく、相手は自分とは異なる価値感情を持っていることを前提としつつ、互いに異なる生活利益を主張して相互理解を深めていくことである。」(Aさん)

「他人」と「他者」の違い

ここで出てくる「他者」という言葉のイメージが日本人には持ちにくいのではないだろうか。僕たちが一般に使う、「他人」と「他者」とは違う。他人というのは、いくら「赤の他人」などと言っても、何か共通する感情の土台が前提となっていて、お風呂に入れば背中の一つも流し合い、世間話をするようなイメージがある。

しかし、「他者」というのは、絶対に理解できない何ものかである。考えてみればこれは当たり前のことで、人は自分以外の人間の心の中を見ることはできない。私とあなたの間には、絶対的な断絶がある。

少し話しは外れるが、僕は今、ユダヤ教の成立からキリストの活動、キリスト教会の成立の流れを軽く追っている。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちは、パレスチナから離れて、ローマ支配下の都市に移住しその中で少数派としての共同体を形成する。ディアスポラと呼ばれているものだ。帝国支配下の大都市には、さまざまな民族出身者が集まって、コスモポリタンな雰囲気を醸成する。そうした都市で問題となるのは、「国際交流」や「国際理解」ではない。

さまざまな言語が飛び交う中で、人々は全ての言語を習得できるわけでもないし、する必要もない。彼らは共通の言語をカタコトで必要が足せるだけ話せればそれでよい。それ以上は、なるべく関与せずに生きていくほうが現実的だ。

「あまりにも多様な人々がまじり合って共に暮らす場合には、相手との違いを『理解する』ことではなく、相手との違いを『気にしないで』暮らしていくしかない。このことは、それぞれに違いがあって理解を超えるようなところがあっても『それはそれでいいではないか』として、『気にしないで』生活することを意味する。」(一神教の誕生 加藤隆 講談社現代新書)

コスモポリタリズムとは、「互いによく理解し合うこと」よりも「互いに理解できなくても、共に生活すること」が重要になる。

「共生」とは何か

自分が相手を理解しない(できない)ということは、自分もまた誰からも理解されないということである。大帝国の大都市の中で孤独に生きていくのが、コスモポリタン的なあり方だといえる。

そうしたコスモポリタンな場所では、文化の坩堝状態が続くにつれて、その人間の背景となった言語も文化も薄れていき、だんだん自分が何者であるのかがわからなくなってくる。

このあたりは外国に思いを馳せなくても、「民族」を「地方」に、「言語」を「方言」に言い換えると、日本の大都市でも同じような現象は起こっている。それでも、日本ではいまだに他者は存在せず、あるのは他人だという気がするのはなぜだろう。

他者意識の背景には、一神教的な世界観がある。だから、ユダヤ教やキリスト教を信仰しない日本人が他者意識や個人主義を持てない(持たない)のは当然かもしれない。しかし、私とあなたとの間には絶対的な断絶がある。そこから、個人や人間関係や共同体のありかたを考えないと、「私」や「あなた」が立ち行かなくなってきているような気がする。