さくぶん道場 第202回 大谷雅憲

小説『野火』と映画『野火(市川崑版)』

前回、「IB 日本語の受講を将来考えているG9・G10の人へ」 というタイトルのコラムで、IBを受講する前の学年の生徒がどのように日本語と接していけばいいのかについて書きました。別の言いかたをすれば、「英語と日本語のバイリンガルを目指す学生にとって必要な日本語の教養とは何か」ということになりますので、IBだけでなく、日本の大学進学を考えている人にも参考になるでしょう。

「何をどう学ぶか」(理論)と「何を読むか」(実践)にわけて紹介しました。実践編については「さくぶん道場」のコーナーで引き継いでいきたいと思います。

今回紹介するのは、2010年頃にIB Japaneseで『野火』(大岡昇平)についての授業を終えた後に書いたものです。

小説『野火』と映画『野火』

大岡昇平の『野火』を読んだ後で、市川崑監督の映画『野火』を見た。1959年につくられた白黒映画を、生徒たちがどのように受け取るのかに興味もあった。

小説を読む上で、僕が授業で問いかけたのは以下のようなものだった。

「日本という国家、軍隊という組織、病院という周辺組織、その周囲にいる見捨てられた人たちの空想上の居場所、そこからも追放され、裸形の実存を剥き出しにされた人間が見る光景はどのようなものであり、そのような状況において存在の条件と何か。」

小説では、東京の精神病院にいる田村(主人公)が、離人症の治療のために手記を書いているという形式になっていて、後半の「狂人日記」の章でそれが明らかにされる。

①レイテ島の極限状況下をさまよう田村の目で見られた世界。

②レイテ島で田村(1)に起きた出来事を精神病院で想起する田村(2)の世界。

③精神病院で記述している田村(2)を記述しているレイテ戦を体験した作者。

これまで田村(2)の視点まででこの作品を読んでいて、不可解な部分が残っていた。田村は明らかに人肉食のタブーを犯している。にもかかわらず、食べていないことになっている。狂人の記述だと言ってしまえばそれまでだけど、それでは肝心の主題がぼやけてしまわないか。

そういう指摘がないわけではなかった。「狂人日記」以降の記述は、狂人が書いたという設定をつけることで、ヒューマニズム的な余地を残したという解釈だ。そうなると、狂人日記以降は蛇足ということになる。そうだろうか。僕はむしろ、精神病院で手記を書いている田村(2)が自己を冷酷に解剖しながらも、まだ残る自己欺瞞を更に摘出しようとしている作者の乾いた視線を感じる。自己欺瞞を三重の仕掛けで周到に摘出する鬼の目。それが大岡昇平の思考実験だった。

小説で中心となるのはリアリズムの極致である「手」と、それに続く幻想的な「野の百合」の章だ。映画では、この章にあたる部分が抜けている。さらに、精神病院で手記を書いている田村(2)もない。カニバリズム(人肉食)についても、田村(1)は一度干し肉を口にするが噛み切れずに歯が抜けてしまい吐き出してしまう。その結果、「極限状態に置かれた人間の真の姿」は、映画では「魂を失ったギリギリの所で人間性を失わなかった話」になる。映画のラストも野火(=人間の普通の生活)に戻りたいという田村(1)の願望の象徴となって映画は終わる。映画のキャッチフレーズで使われた「ヒューマンの香り高い」とはそういうことだ。

小説を読んだ者の側から言うと、映画『野火』の構造は換骨奪胎である。小説『野火』では、田村は日本に帰るが、そこは元の日本ではない。彼は日本にいながら、精神病院という外部にいるのだから。田村の体験は田村を「人間の普通の生活に戻る」ことを許さず、田村(2)自身も、「自分」と「人間たち」を厳格に区別している。そうした人間の外部に出てしまった(それを「神」と呼ぼうが「堕天使」と呼ぼうが「狂人」と呼ぼうが同じことだ)存在による「人間」の告発として読まなければならないはずだ。

だからといって映画『野火』が失敗作だと言いたいわけではない。まず、田村役の船越英二が素晴らしい。目の光を失い幽霊のようにさまよう姿を見るだけでもこの映画を見る価値はある。レイテ島の日本兵の悲惨さもよく出ている。一兵卒にとって戦争とはひたすら歩くことだ。イデオロギーとしての戦争ではなくリアリズムとしての戦争がこの映画ではしっかりと描かれている。田村が干し肉を口に入れて抜けた歯と共に吐き出すシーンはユーモラスですらある。

『野火』と「空腹の芸術」

授業で小説『野火』を読み終え、映画『野火』を見る前に、『空腹の技法』(ポール・オースター/柴田元幸訳 新潮文庫)を読んだ。最初のエッセイは「空腹の芸術」。一読して驚いた。『飢ゑ』(クヌート・ハムスン)について書いていることが、そのまま『野火』(大岡昇平)の批評ではないかと思えるぐらいに重なる。偶然、あるものと別のものが結びつき合い、響き合うという瞬間。この驚きと喜びをおすそ分けしよう。

「ここにはいかなる制御も、安定した準拠点もない。あるのは変数ばかりだ。またこれを、精神と身体の分離という概念を鍵にして、哲学的抽象に還元してしまうことも適当ではない。我々は観念の領域にいるのではないからだ。これは極端な強要によってもたらされた、ひとつの肉体的事態である。精神も身体も弱められた主人公は、自分の思考に対しても行動に対しても支配力を失っている。にもかかわらず、自分の運命を支配しようとする努力を彼は執拗につづける。これが本書のパラドックスであり、全篇を通じて演じられる循環論法のゲームである。」

「若者は深みの底にとどまり、いかなる神も彼を救出すべく現れ出ない。みずからを支えるために、社会的因襲に頼ることもできない。彼は根無し草であり、友もなく、物もない。彼にとって秩序は消滅し、何もかもが根拠を失ってしまっている。彼の行動をつき動かすのは、その場その場の気分、制御しようのない衝動、無秩序な不満のもたらす疲れた苛立ち、それだけだ。」

「彼はすべてを失う──自分自身をも。神なき地獄の底に至れば、自分という物語さえ消滅する。」

「空腹が作り出した闇を彼はのぞき込む。そこに見出されるのは、言語の虚無だ。現実はいまや彼にとって、物のない名たちと、名のない物たちから成る混沌と化している。自己と世界のあいだの絆は、いまや断ち切られてしまっている。」

ここで述べられている「彼」を「田村」と言い換えてみるといい。一部の隙もなく『野火』における田村の置かれた状況そのものの記述になっている。『野火』は戦争のリアリズムの追求だけではなく、極限状況における存在と意識の実験小説であると授業でも言い続けてきた。オースターが「変数」という言葉で表したものは、大岡昇平の「任意」と同じだ。こうした偶然の一致も読書の快楽の一つだ。