さくぶん道場 第201回 大谷雅憲
フランケンシュタイン/制度の言葉とディスコミュニケーション
突き出た額、平たい頭、傷だらけの顔、首から飛び出すボルト、ぎこちない動き、足りない頭脳┄┄このフランケンシュタインのイメージは、1931年に制作された映画「フランケンシュタイン」が下敷きになっている。異形の怪物が異形ゆえに疎まれ、憎悪の対象になり、滅ぼされていく。異形の存在は、小さな愛らしい存在を愛そうとするが、鈍く不器用で不必要な力が愛する対象を傷つけてしまう。

原作が書かれたのは1818年のこと。フランケンシュタインというのは、怪物ではなくて怪物を作った若き科学者の名前。怪物には名前がつけられていない。映画と異なるのは、この怪物は8フィートもある巨人で、すばしっこく、どのような環境にも適応できる能力を持つ。しかも、非常に倫理的・知性的だ。
科学者であるフランケンシュタインは、怪物を創造した瞬間から、この怪物を忌み嫌って見捨て、逃亡する。怪物は、みずからの創造者から見捨てられただけでなく、存在しているだけで恐れられ、溺れている少女を助けても、お礼どころか少女の父親の銃で撃たれて負傷する。人間の言葉を覚え、美しい心をもった人たちの生活を盗み見しながら、そうした心の美しさにあこがれ、彼らと交流することを望んでも、姿を見られるだけで、殴りかかられてしまう。
この小説は入り子構造になっている。
ウォルトンの物語<ヴィクトル・フランケンシュタインの物語<怪物の物語<ド・ラセー一家の物語>怪物の物語>ヴィクトル・フランケンシュタインの物語>ウォルトンの物語
こんな具合だ。ヴィクトル・フランケンシュタインの話を読んでいるあたりで、あまりに浅薄な正義感と自己弁護にしか聞こえない人間愛の言葉や態度に辟易していたら、怪物の物語になって、作品の視界が一気に広がった。これは愛と相互理解を求める物語であり、それに対して、ヴィクトル・フランケンシュタインは徹底的に「制度の言語」で語ることしかしない。全く両者の対話が成立しないディスコミュニケーションこそが怪物なのである。
ヴィクトル・フランケンシュタインが死んだとき、怪物は喜びの声など上げはしなかった。自分を創造し、自分を憎み、自分を理解すらしようとしなかった者の前にしゃがみこみ、自責の言葉をはきつづける怪物。
「かつてはおれも、おれの外形の醜いことをゆるして、おれが現すことのできるすぐれた特質のためにおれを愛する人間に会うというあやまった望みをいだいていた。おれは名誉と献身という高潔な思想をやしなったこともある。しかし今では犯罪がおれをもっともいやしい動物以下に堕落させた。いかなる罪も、いかなる悪事も、いかなる苦悩も、おれの経験したものに比すべくもない。」

この作品を読み終えて、僕は上田秋成の「白峯」を思い出した。日本史上最大の魔王である崇徳上皇と西行の対話。西行の詠む歌に応えて崇徳上皇は姿を現す。それは、崇徳が自分の言葉を聞いてくれる者が現れたと感じたからだ。しかし、西行は仏教的世界観によってしか崇徳と対話しようとしない。これはもう、対話ではなくて、一方的な説教である。西行は自分の議論に満足する。崇徳は西行の最後の言葉にふっと笑って姿を消す。この場面について、多くの評価は、「崇徳は西行の問いに納得した」ととらえている。
冗談じゃない。崇徳上皇は、西行の「制度の言葉」とのやりとりを通して、そのディスコミュニケーションに、諦めの微笑みを浮かべたのだ。怪物とはそのようなディスコミュニケーションの溝であり、制度の言葉を放つ人間はそのことに気づきもしないというところにこの作品の恐ろしさはある。上田秋成は、崇徳の哀しみを知っている。だから、歴史は崇徳の語ったとおりに進んだと締めくくったのだ。制度の言葉の上に安住しているものが、そのことに気づくわけがない。

